引き裂かれた村 「馬込村」 のこと

馬込村は現在の岩槻市と蓮田市の境にあった村である。

明治22年4月1日、南埼玉郡長から馬込村近隣7村の合併の話があり、各村は合併に同意して新村が誕生

した。

近隣7村とは馬込村のほか、掛村、金重村、本宿村、箕輪村、平林寺村、川島村で、風俗習慣や村の規模も

同じようなので合併することには異議はなかったが、新村の名称を決定するのには困難を極めた。

 埼玉県は規模が大きな村の名前をとることを要請したが、各村とも吸収合併ような形になることを嫌い決定

は長引いた。

 結局、新村の名称は埼玉県北部から平行して流れる綾瀬川と元荒川が新村の所で急接近することから、

川(河)と川(河)が合うとのことで、河合となり河合村が誕生したのである。そして、河合村の役場は村の中央

にあたる旧平林寺村に置かれ、河合小学校に隣接していた。(現在、校庭の片隅に「河合村役場跡」の石碑

がある。)

 それから66年後、昭和29年5月3日に町村合併促進法の施行により河合村は岩槻町と合併した。

 しかし、蓮田町に隣接する村の一部(特に旧川島村・旧馬込村)には蓮田町との合併を強く望む声があった。

 河合村としては挙村一致をもって合併する意向であったので、この問題を先送りにして合併に踏み切った。

その後、旧2村の蓮田町への合併運動はさらに強まったので、県の町村合併促進審議会は斡旋に乗り出し

た。蓮田町への合併に住民の総意があった旧川島村の全部と旧馬込村の一部(上組)を蓮田町に編入する

ことで関係者の意見が一致した。しかし、中組の22世帯には賛否両論があったため、岩槻市に残されてし

まった。そのため蓮田町編入希望の15世帯は岩槻市に対して教育・納税・公共施設の利用等々、蓮田町民

と同様の取扱いができるよう申し入れ了承された。

そのため中組15世帯の子供達は河合小中学校ではなく、蓮田南小学校、蓮田中学校に通うこととなった。

 しかし、岩槻市教育委員会と蓮田町教育委員会との協議において、この措置は昭和30年度末までと定め

られていた。それを知った中組の住民達は激怒し、岩槻市からの分離運動が再び燃え上がった。子供達の

就学については、とりあえず、蓮田町にいる親類縁者を頼って住民票のみを移し、蓮田町の学校へ通ったの

である。このような就学形態が、いつまで続いていたのかは不明であるが、少なくとも私が中学を卒業する

時点で中組から通っていた後輩がいたので、彼等が卒業する昭和40年代中頃までは、確実に続いていたの

である。(中組は南小へは近かったが、蓮中へは遠かったので自転車通学が許可されていた。)
 
中組の編入問題は裁判沙汰やら人情沙汰まで起こり、馬込村始まって以来の事件となったのである。

しかし、中組が岩槻に編入されようが、蓮田になろうが、すでに上組が蓮田町に編入されていたので、馬込村

が引き裂かれてしまった現実は変わらなかったのである。

 全世界的に東西統一、南北統一が実現され、或いは実現されつつある現在であるが、岩槻市馬込と蓮田市

馬込の統一はいつの日になるのであろうか・・・・。


※馬込村は上組、中組、岡組、町屋組、辻谷の集落で構成されていた。