「あなたが探す廃線跡」にようこそ!(岩槻市内)
注 この住宅地図には一切、線を加えておりません。
ただ、目印になる公共施設等には見やすいように文字を拡大して貼り付けてあります。
岩槻市内全箇所ではなく、特に地図上でわかりやすい所を掲載してあります。
ヒントはアルファベットで枠のどこかにあり蓮田駅から岩槻駅方面へ進む場合は左から右、
或いは上から下へたどって下さい。
(アルファベットは順に付けたつもりですが、Qの位置を間違えてしまいました。)
図の下には、現役の武州鉄道を知っている方々のお話や、現在の状況等を記載してあります。
1.A〜B
まず、始めの図は蓮田市と岩槻市との行政界で馬込地区のものです。
下部中央の黒い道路が国道122号です。この国道122号と武州鉄道が交差する所に馬込駅がありました。
この馬込駅の建設を記念した石碑が現在も私有地に保管されています。ただ、残念ながら半分に折れてしまって
います。
国道122号との交差部にはもちろん踏切があり、そこには踏切の番をするお宅があり、地元の人達はこのお宅を
「はただしんち(旗出しん家)」と呼んでいた。
国道122号より蓮田市側は竹林で、岩槻市側は低地(馬込駅付近から見ると7〜8m窪んで見えた)で鉄道敷は
盛土して路盤・道床を造ったので、昭和40年代までは廃線跡を歩くと両サイドが断崖絶壁という感じであり、
南側は沼のような湿地帯(一部、田畑もあり)であり葦が生い茂っていた。(A〜B)
2.C〜D
この図はABに続く図で、中央を横断する黒い道路が国道122号です。右上部の幅広く黒い道路が東北自動車道で、
そこに架かる橋が町谷橋です。町谷というのは地区の名称で、年輩の人達は「町屋組」と呼んでいます。
国道122号と武州鉄道の間で、図のやや中央上部にコンクリート杭を製造する工場があったが、現在はパチンコ屋に
なっています。
この図と前図(AB)は未舗装の道路で、次の図(EF)までの間が比較的車の往来もなく散歩しながら探索するのに
格好の場所である。
武州鉄道も東北自動車道と国道122号バイパスに分断され、次の図(EF)へは町谷橋を渡って進むようになる。
3.E〜F
この図は旧馬込村から旧平林寺村へ進む図で、右下部にあるのが、岩槻市立河合小学校である。
武州鉄道が現役だった頃、この小学校に通っていた馬込地区の子供達は近道をするため線路を歩いて帰ったことも
あるそうだ。
その際、小学校裏の堀に架かっている鉄橋を渡るときが、足を踏み外しそうになり大変怖かったとのことである。
4.G〜H
この図は前図(E〜F)から続く図で、散歩しながらの探索は河合幼稚園の正門前で途切れてしまう。しかし、
図上では簡単に廃線跡を追うことができる。河合幼稚園のお隣りのお宅の地形を見れば、明らかに武州鉄道鰍ノ
敷地を買収されたため地形が悪くなったことはすぐにわかる。また、そのお宅に続く土地が三角形であったり、
細なが〜い長方形であったりするので廃線跡であることは一目瞭然である。
5.I〜J
平林寺公民館の付近に河合駅があった。どの図からも外れてしまったが、武州鉄道の傍に河合中学校があった。
武州鉄道ほど短命ではなかったが、岩槻中学校の分離校ができたため、昭和47年3月末日、20年余りで、その
使命を終え廃校になった。
6.K〜L
この辺りは廃線跡に建てられた細長い住宅が目立つ。(明らかに他の住宅と向きが変わっている)
現地を歩いてみると一目瞭然である。
7.M〜N
※図のN近くに岩槻北口駅があった。蓮田〜岩槻間では最初に出来た駅で、御成街道沿で収益が見込める場所だった。
8.O〜P
東武野田線の岩槻陸橋の下を武州鉄道が走っていた。
陸橋の近くには、野田線の渋江駅があり、武州鉄道との連絡駅であった。(路線図参照)
蓮田から旧粕壁中(現・県立春日部高校)に通う学生達は陸橋を登り、この渋江駅を利用していたとのこと。
岩槻陸橋については、「民営鉄道の歴史がある景観U」を参照されたい。
9.R〜S
※図の上の方に岩槻本通駅があり、図の下の岩槻中学校と次図の太田小学校にまたがる広大な敷地に岩槻駅があった。
敷地には駅舎のほか、 武州鉄道鰍フ本社(2階建て)、機関庫、保線事務所などの建物があった。駅には売店もあった。
10.Q〜T
※図の左上から右下に通る道路が「仲町通り」です。仲町通りには、踏切があって汽車が通る時刻になると
近所のおばさんが来て、踏切番をしていたとのことです。
この図を過ぎると、線路は大きくカーブしていたため、汽車は黒い煙を吐きながら、ゆっくりと走っていたので
子供達は、 わくわくしながら見ていたそうです。
11.U〜V
※この図から先は線路と県道が並行して走っていて、正蔵院の入口の角に「南江戸みち」と刻んである庚申塚
があり、そのところに真福寺駅があった。
昔は県道の西側が小高くなっていて杉並木が続いていた。その向こう側が線路になっていて、子供達は
自転車に乗って走っている汽車と競争して遊んでいたとのこと。
12.w〜X
※コメント作成中
13.Y〜Z
※Yより少し下の廃線跡が幅広くなった所に笹久保駅があった。近所に住む人は、「岩槻の雛市」や
「大宮の十日市」に行く時に武州鉄道を利用したとのこと。ここも県道と交差するところに踏切が有り、
近所のおばさんが旗を振っていたとのこと。ここから先の野田や大門は陸の孤島状態であったため、
土地の人達は鉄道の開通を大変喜んで駅に通じる道路の工事や駅のトイレ掃除まで勤労奉仕で
鉄道を支えたとのことでした。
しかし、鉄道を利用する人は「岩槻の農学校」や「久喜の女学校」へ通う学生がほとんどで経営的には
苦しい状態が続いていたようです。